私たちは毎日、たくさんの情報に囲まれて生きています。
目や耳から入る感覚、心の中で浮かぶ思考、体が感じる微妙な変化など、それらは本来バラバラの断片です。
けれど脳は、その断片を勝手に繋ぎ合わせ、まるで映画や小説のような「物語」を作り上げます。
そして、その物語の中心には必ず「私」という主人公がいます。
「私が見た」「私が聞いた」「私が感じた」など、当たり前のようにそう思ってしまうのは、脳が一つの物語として世界を理解しようとしているからです。
でも実は、この「私」という存在すら、脳が作り出した「登場人物」にすぎません。
さらにやっかいなのは、この「作られた私」が、社会や文化の影響を受けて形を固めてしまうことです。

「あなたはこういう性格だ」「自分らしさとはこうあるべき」という価値観やイメージが、気づかないうちに刷り込まれます。
そして私たちは、その固定化された自分像を信じ込み、「これは私だ」と決めつけてしまうのです。
でも本来の自分は、もっと変化しやすく、曖昧でつかみどころのない存在かもしれません。
それなのに人はなぜ、自分像を固定したがるのか?
おそらく、「自分が何者か分からない」という不安から逃れたいからでしょう。
曖昧なままでは落ち着かない。だからたとえ幻想でも、確かな“自分”というイメージを持っていたほうが安心できるのです。
とはいえ、この「自我」が実は断片的で、作られたものだと気づくのは簡単ではありません。
瞑想や深い自己観察、あるいは人生の大きな転機のような特別な経験をしない限り、私たちは日々の感覚や思考を「一人の私が連続して経験している」と思い込み続けます。

でも本当は、それらはもっとバラバラで、つかみどころのない現象なのかもしれません。
つまり、脳は世界を理解するために、膨大な情報を取捨選択し、順番を並べ替え、つじつまを合わせて“ストーリー”にする名人なのです。
この作業は、本人の自覚なしに一瞬で行われます。
だから私たちは「私はずっとこの私だ」と思い込みながら生きていられる。
その錯覚のおかげで、日常の中に一貫性や意味を見いだせるのです。
もちろん、こうした仕組みがなければ生きにくくなるでしょう。
常に「自分って何者だ?」と迷い続けていたら、社会生活もままなりません。
だから脳は、多少のフィクションを混ぜながらでも、私たちに安定した自分像を与えてくれているのです。
改めて考えると、この「勝手に物語を作る能力」は本当にすごい。

私たちの感情も記憶も行動も、この物語の枠組みの中で動いています。
そしてそれは、必ずしも真実そのものではないかもしれないけれど、私たちを生かし、前へ進ませるための大切な仕掛けです。
だからこそ、ときどきは立ち止まって、自分の物語の成り立ちを眺めてみるのも面白いかもしれません。
もしかしたら「こうじゃなきゃいけない」という思い込みから解放されて、新しい自分を見つけられるかもしれません。
脳は、私たちが世界を理解し、自分を信じて生きていくために、絶えず働き続けています。
それが幻想を含んでいたとしても、その精巧さとスピードは、人間だけに備わった驚異的な能力です。
やっぱり、人の脳って凄い。
そう思わずにはいられません。
なので、人記事書き終えた自分に・・・ノンアルで乾杯!・・・
